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kawano! = カワノッチ

私、カワノッチが誰なのか分からない人の為に自己紹介でも‥‥‥
ってそれほど面白い人生は歩んでおりませんので期待せずに見てやって下さいな。
細かく書きますけど自己満足です。

●三人兄弟の長男●
長男の性格
 真面目(融通がきかない)
 保守的(型にはまる)
 おっとりしている(要領が悪い)
 正直(単純)
 欲しいものでも遠慮する
 自分を良く見せる
 度胸がなく、権威に弱い
 人見知りする

●星座・獅子座●
獅子座の性格
 主星が太陽で、プライドが高く、自己中心で、自己顕示欲が強く、人から褒められるのが好き。人生とは、自分を中心に楽しく華やかに生きていくものと思っているのが獅子座。他人の派手なパフォーマンスを見て、たとえ自分の実力が伴っていなくても、負けずにそれをやろうとする傾向が。
 明るくユーモアのセンスも抜群。アイデアが豊富で、演出も上手。また、負けず嫌いで人一倍働き、実績を積もうとする努力家。何事も自分で経験しないと納得しない、よくいえばこだわり屋、悪く言えばわからず屋でもある。
 どんなに荒々しいことを言っても、罪が感じられないのは獅子座の人徳。

●干支・寅年●
寅(虎=山林の霊獣):社交的
 意志が強く、万難にも突進する気概がある。強情と短気を慎めば晩年幸福になる。
 才知にたけ、実行力があり、義侠心に富んでいる。 進取の気象があるので、大成功をおさめる人もいる。 だが、負けず嫌いの性質から人の言葉を聞かずに、目上、目下の差別なく争い、物議をかもしがちである。 また冒険的、投機的なことを好む傾向もあるが、それを慎むこともできるので、 ムリヤリの大望を狙わなければ、晩年の成功は疑いない。
 縁日13日

●血液型・A型●
A型の性格
・保守的・悲観的
・自己顕示欲が強い
自分の内面に関心を持ち、客観的に追求する
精神的平静を維持するため、予防的努力をする
・感情の均衡が破綻すると、自分では修復が困難
・人目を気にし、常識や倫理に従おうとする

●1974年→八白土星●
八白土星の適業
 政治家、請負業、武術家、神官、諸種の工業

●好きな色→赤●

 活動的、積極的、幼稚、お世辞でも喜ぶ

●出身地→広島県●
広島県
要領が良く円満な性格。自分が損をしないように巧妙に動く。

●出身地→広島県●
広島県
要領が良く円満な性格。自分が損をしないように巧妙に動く。



誕生!
1974年(昭和49年)8月1日 広島県広島市中区の本通りにあった産婦人科、現在・シアトルズベストの周辺で生まれました。誰かその産婦人科の名前を知っている人がいたら教えて下さい。

幼少期
その当時の実家は広島市中区白島の大通りに面した家で育ちました。車の通りが多くて家の周りでは遊ぶ事が出来ない、そして目の前の基町高層アパートを見ているとよく飛び下り自殺を目撃してしまうようなところでした。

父は”のりたま”で有名な会社で働いていましたが、気がついたら文房具の卸し屋さんで働いていました。そして週に一度、トランペットを持って広島吹奏楽団の練習へ。何ヶ月かおきに定期演奏会に出演。家では毎日僕にジャズやビッグバンドのレコードを聴かせてくれていました。あっ!あと、週に4〜5回トランペットを持って広島市民球場にカープの応援に行っていました。もちろん山本浩二ファンクラブです。昔はファンクラブの人は入場料をファンクラブが負担してくれて無料で入る事ができた‥‥そんな記憶があります。

母は昔からの夢だったパン屋を僕が3才くらいの時に実家を改装して作りました。名前は確かヤマザキパン『スウィートショップ・カワノ』だったと思います。オープン当時は普通のパン屋にもかかわらず、行列ができる程でした。

僕が3才の時に弟の『光康』が生まれ、5才の時に三男の『雅弘』が生まれました。僕が『健一』、弟が『光康』。2人あわせて『健康』で、『雅弘』はあぶなく”第一”とかけて『大地』になるところでしたが、それは余りにフザケ過ぎていると言う理由で変更。困った家族です。

なぜか将来の事を考えた父と母は俺を3才の頃から英会話教室に通わせました。挨拶程度に話せるようになりましたが、先生が本物の外人さん。その当時、外人さんを見たことなかった僕は最後まで慣れる事が出来ず、外人恐怖症になってしまいました。だから今、英語が話せないのでしょうね‥‥言い訳‥‥‥。

英会話と同時進行でカラダを鍛える為に体操教室なるところにも通わせてもらっていました。ココは5年間行きまして、次はバク転っと言うところで辞めてしまいました。もうちょっと続ければ良かったっと今は思います。はい。

小学校
小学校は近所の”白島小学校”に通っていました。確か1年5組、イチゴ学級だったと思います。そして小学校2年生の時に大通りに面した僕の家は新交通システム(現・アストラムライン)の工事の為に立ち退き。今の実家の場所、広島市安佐北区に引っ越す事になりました。生まれて始めての転校でした。お別れ会の時にたくさんの女の子からラブレターなる物をもらいました。その数、約20通。クラスの女の子ほとんどからもらいました。これは自慢。っと言うか人生で唯一もてた時でした。

当時、安佐北区は超イナカで道路も今のように大きい道はなくて車一台がギリギリ通れるような道ばかり。でも小学校の社会の教科書に載る程デカい高陽ニュータウンと言う団地があるようなところ。ちなみに僕の家はその団地の隣にあっる山の名前が付いてる団地、原田山団地と言うワケの分からないところに住んでいました。白島から高陽町に引っ越してきた僕にもすぐに友達はできましたが「都会ッ子」とみんなから言われ、貶されてるのか羨ましがられているのかよく分からない状況でした。

高陽町の小学校は”落合東小学校”。これまた2年5組で愛称はニコニコ学級。担任の先生は生徒から没収したゲームウォッチを職員室で遊んでいたのを発見されて、それ以来『ウォッチ先生』と呼ばれていた記憶があります‥‥確か‥‥‥。

小学校4年生の時に突然、楽器がやりたくなり親に「ピアノが習いたい」と訴えたところ「ピアノよりも歌が良いんじゃないの?」っと言われ試験を受けて広島少年合唱隊に入隊。試験の時は親も始めて聴いたとビックリする程良い声で歌ったそうです。そしてNHKのテレビ番組で歌を歌ったり、ヒロシマ平和音楽祭でアーティストのコーラスをしたりと、意外にちゃんと歌っていたのよ。しまいには中国四川省の重慶市と広島市の友好親善の為に試験に合格した約20人と共に親善旅行。小澤征爾の指揮で歌ったりといろいろやった事があるのよ。これ、ちょっぴり自慢話。

小学校4年生から6年生にかけて夏になると仲間を集めて近所の公園に巨大な迷路風のものを作り、自分達でマスクや衣装を作ってお化け屋敷を製作。入場料たしかくらい500円。これが意外に儲かるのよ。しかし僕が6年生の時に下級生のヤツが本物の猫の死体を使い、これが近所のおばちゃんにバレてその年の夏で中止。困ったもんだよ。

中学校
中学校は歩いて30分くらいの所にある落合中学校に通っていました。中学生になると、今まで普通の子供だった奴等がビーバップハイスクールなどに憧れ始めトサカが生えてきました。僕はあまり好きでは無かったのでちょっと髪を伸ばしてみたりなんかしておりました。

クラブ活動は父親の影響もありブラスバンド部なるものに所属し、アルトサックスを担当。クラブ内はハーレム状態で、約30人の中で僕とパーカッション担当・村上君の2人以外は女。とても可愛がってもらいました。しかし3年の先輩が卒業すると同時に村上君を残して退部。2年生から卓球部に入部してレギュラーにもなれないのに楽しく卓球ライフをおくりました。

中学1年の夏休みに少年合唱隊の合宿にOBとして参加。OB約15人が1つの大部屋に寝泊まりしてました。しかしその夜に事件はおこりました‥‥‥僕が寝ていると真夜中に周りがゴソゴソと騒がしくなってきたのです。僕は恐る恐る目を開けると、僕の周りの人達が男同士で淫らな行為をしているのです。男同士がですよ!!そうです。みんなホモだったのです。僕にはまったく理解できず驚いていると、1人の先輩が「川野君もどう?」ギャ〜〜〜!!「僕はけっこうです」「じゃあキスだけでも」「い‥‥いや‥‥‥僕のファーストキスは大好きな人としたいんです」なんてワケの分からない事を言いながら泊まっていた旅館から逃げ出しました。しかし山奥だった為、自分の居場所が分からず戻る事に。でも部屋に戻れば飢えた男達の餌食に‥‥‥嫌だ。仕方なく廊下で寝る事に。情けない。

合宿から帰ってきてすぐに脱退。

話は変わるが、僕はおこずかいをほとんど貰えなかったので自分で稼ぐ事にした。それは父親が趣味で集めた音響機器を使いインチキ音響屋をやる事だった。近所の公民館や集会所。地区のお祭などに、現在バッドランズの音響担当の池田君と機材を持っていきPAをして儲けていました。1回約1万円と中学生だった僕達には大きな収入だった。

中学校の話に戻りますが、僕はいろいろ奇抜な髪型にチャレンジしました。ヤンキー君達の勧めでソリコミなるものを入れる事に。放課後の教室でヤンキーの友達にハサミでチョキチョキとね。しかしどうも満足がいかない。そこで左右のソリコミをつなげてみる事に。完成!!これは奇抜だ。説明するとオデコを後ろに向かって剃り、広いオデコを自ら作ったのです。つまりプロディジーや電撃ネットワークの人みたいな髪型。これはかなりインパクトがありました。っと言うかあり過ぎました。怒られました。

次にチャレンジしたのは流行るちょっと前だったツーブロック。これまたやってみたものの、気に入らない。そこでカミソリでツルツルに剃る事に。つまりほとんどモヒカン状態。これまたインパクト大!!注目度ナンバー1ですな。しかしこれまた怒られました。

卒業間近にブラスバンド部が全校生徒の前で演奏する事になり僕はお客として見ました。その時、1人残っていたパーカッション担当の村上君がドラムを叩いていたのです。そしてドラムソロを披露。ガ〜ン!僕は感動してしまいました。実は数日前にテレビのトーク番組で元ビジーフォーのドラム・ウガンダ氏がドラムソロを披露してドラムに恋をしていたところだったのです。僕もドラムが叩きたい!!そこで次の日から村上君にドラムを教えてもらう事に。これが僕のドラム人生の始まりです。つまりキッカケはウガンダと村上君。

進路を決める頃になり三者面談などを受ける事が多くなりました。成績のあまり良く無かった僕は先生から「川野!お前が行ける学校は少ないぞ」僕は高校さえ行ければどこでも良かった。そして先生は2つの高校を提示した。「三次工業か宮島工業。どっちがいい?」どうせなら日本三景・安芸の宮島を見ながら勉強したい。勉強するのか俺は?実は宮島工業高校にはインテリア科と言う横文字の付いた素敵な学科があるのだ。絵を書いたりするのが好きだった僕はデザインの勉強をしようと強引に心に決めた。

高校生
宮島工業高校の入試。周りにはデカいトサカが付いた馬鹿そうな奴等がたくさんいたのよ。突然、入試の日だというのにケンカが始まったりね。俺は本当にこの学校に行くのか??っと内心ビビりながら試験に挑む。昔から馬鹿だった僕はほとんど解答できずに終了。しかい倍率3倍以上の宮島工業高校に入学する事になった。

安佐北区から宮島工業高校がある大野町までは電車で1時間以上かかる。毎日がちょっとした旅になっていた。帰ると時間も遅くなっていたのでアルバイトができないので、朝早くから新聞配達をしていました。しかも高校3年間休まずずっと続けました。意外に真面目な高校生でしたよ。馬鹿なだけでね。

授業は家具を作ったり、デザインをしたり、図面をひいたり。。。まあ、インテリア&建築に関係する事を勉強しておりました。先生からは「川野はアイデアは良いんだけど、早くやろうとして作品が荒いぞ!!」っと、いつも怒られておりました。

入学してすぐくらいに電車の中で違う科の‥‥たしか中村君って人が話し掛けてきて「な〜な〜、知り合いにドラム叩ける人いない?」僕は迷わず「俺叩けるよ」練習を始めて半年くらいなのにバンドがやりたくて嘘ついちゃった!!っで参加する事に。まあ昔から器用な僕はなんとなく叩けた。

しかしこのままではライブで絶対に失敗してしまう。そう思ってドラムセットを買って家で練習する事にした。ギグスの通販で買った2万円のドラムセット。毎日叩いていたら父親が「おい!」ヤバッ。怒られる。「知り合いの楽器屋の人が中古のドラムセットをいらないかって言ってきてるぞ。いるか?」C=(^◇^ ; ホッ!いる!いる!っで親ローンをする事に。金額7万円。パールのピンクのドラムセット。プリンセスプリンセスのドラムの人と同じ色のセット。これで毎日練習しまくった。

中村君のバンドと同時進行で同じくらすの奴ともバンドをやる事になった。パーソンズのコピーバンドである。今考えればとても無謀だったけど3回か4回練習したところですぐにライブをした。場所は岩国の今は無き『ライフタイム』と言うハコ。お客さんは5・6人。下手ながらも頑張って演奏したつもりである。演奏終了後、お客さん達がスタッフルーム及び楽屋に入っていった。フロアに人は0。つまり全員、出演者とスタッフの人だった。俺の生まれて始めてのライブはお客さん0という悲惨なものでした。

そして中村君とのバンドのライブの日がやってきた。ユニコーンのコピーバンドである。たしかキサダ楽器主催の『ガンバルライブ』とか言うコンテスト形式のイベントだったと思う。初ライブの悲惨さから動員を期待せずに、自分自信出来る限りの演奏をしようとステージに‥‥‥会場は超満員。しかも中村君は友達がいっぱいいてステージ前にはたくさんの女の子がいた‥‥‥緊張した。それから中村君とは何度かライブをした。楽しかったよ。だってお客さんが多いんだもん。

高校時代、聴いていた音楽はほとんどハードロック。ガンズとかメタリカとか。キッカケは後ろの席に座っていたて寺西君の聴いていたウォークマン。昼飯の時に寺西君はエアロスミスのパンプってアルバムを聴かせてくれた。ガ〜ン!!世の中にこんなにすごい音楽をやる人がいたのか!!僕は吃驚して食べていた御飯粒を寺西君の顔めがけて飛ばしてしまった。今でもエアロスミスは僕の憧れのバンドです。

朝は毎日、新聞配達。日曜日はインチキ音響屋をして遊び賃を稼いでいました。っが、高校生になってからのインチキ音響屋はレベルアップしていた。近所の神社で行われる神楽などの音響。今までならステージ前にマイクを立てて音を拾っていたが、この頃からワイヤレスのピンマイクを導入したりと機材が充実。照明にまで手を出して、アメリカで活躍していた日本人クラシックギターリストのライブの音響や、NHKののど自慢のバックバンドのライブの音響。しまいには吹奏楽団の様な大所帯の演奏までやっていた。これが意外に金になってこの頃が人生で2番目に裕福でした。

ある時、音響仲間の池田君が大好きなバンド”パーソンズ”のライブを見に行く事になった。僕はライブ自体よりもオープニングのビデオやムービングライトなどの照明に目がいってしまった。今まで明るかったのに一瞬にして真っ暗になったり、赤だったのが突然青になったり。単純な事だけど感動してしまった。僕は学校でもデザインの勉強をしていた。音楽が好きだ。照明にも興味が出た。そこで全部あわせて何か出来ないかと考えた。進路はその方向に進もうと決めた。

専門学校
広島情報専門学校(現・広島工業大学専門学校)の音響芸術学科に進学。音楽理論と音響・照明の勉強ばかりの毎日。好きな事だから面白いと言えば面白いが、2年間もこれだと飽きる事は最初から分かってる。面白くする為に、もっと自分に身につける為に実習を中心に授業に出た。1年の時に2年の実習に勝手に参加したり、2年の時に1年の実習に勝手に参加したり‥‥‥もちろん怒られた。とにかく実践で勉強する事が一番身につくはず。講師の先生の仕事に付いてバイトもした。だから僕は知識は無いけど良い仕事すると思うよ。

1年生の時にクラスにベースがメチャクチャ上手い山本君と、キーボードがメチャクチャ上手い加藤君とインストのバンドを組んでいた。ハードロックしか興味の無かった僕にはとても新鮮で楽しかった。

2年生の時は後輩に誘われてビジュアル系のバンドに参加した。わざわざ見た目重視の為にロートタムと言う胴の無い皮だけのタムを購入。僕の勝手なイメージでシンバルもたくさん付けてみた。意外にウケた。このバンドは呉を中心に活動していた。

それ以外に高校の時からの友達の寺西君とハードロックのバンドをしていた。練習はなぜか宮島の近く、大野町の公民館で練習。ココはサークルのような感じでもう1バンド練習していた。僕がその当時憧れていた『ベッドシーン』と言うバンドだ。『ベッドシーン』の人達にはたくさん教えてもらった。バンドに対しての考え方がかなり変わった。今までは自分が演奏出来れば良い的な感じだったが、だんだんお客さんを意識した演奏を心掛けるようになった。

ある時、学校である女の子が「一緒に旅行に行かない?」と誘ってきた。当時イケイケだった僕はもちろん即OK!!四国・高松まで男1人女3人の電車の旅に出かけた。帰ってくると一緒にバンドをやっていた加藤君の様子がおかしい。あきらかに僕を無視している。実はその旅行に誘ってくれた女の子は加藤君が好きな女の子だった。実は知っていたが昔から仲の良い子だったので良いかな〜なんてね。しかし良いワケが無く。僕と加藤君は口をきく事が無くなった。その雰囲気が嫌で僕は学校にあまり出なくなった。

山本君の紹介でバイトをする事になった。オープンして半年くらいのライブハウス。白島にあるバッドランズである。2・3ヶ月働いた時にバッドランズの社員の小川のテッちゃんが「川野君、俺は辞めようと思ってるんだけど、代わりに就職して働かないか?」面白そうなので即OK。僕って後先考えない人間なんです。

専門学校を卒業式の10日前に自主退学。今考えれば卒業だけでもしておけば良かったと思う。情けない。

バッドランズ
履歴書も出して僕は正式に中区白島にあるバッドランズに就職する事になった。役職は照明担当。デザインをやっていた事と、ドラムを叩いている事で色の事とタイミングは良かったと思う。褒められた事もある。怒られた事もある。社長の友達の照明家・上さんである。たまに僕の照明を見に来ては「川野、ためらうな!その分、遅れるだろ。バコ〜ンと出してやれ。フェーダー全開で出してやれ!!」っとメチャクチャな事を言う人だったが、深夜まで僕に付き合ってくれて色々な事を教えてくれました。

その当時のバッドランズの予定は月に5・6本しかライブが入っていなかった。これでライブハウスと言えるのだろうか?悔しいのでちょっとづつバンドさんに電話などして10本くらいにまで増えたがそれ以上は増えなかった。

僕が就職して数カ月すると世の中のキッズ達にパンクブームってやつがやってきた。最悪の時期だ。毎日パンクバンド。中にはしっかりとした演奏をするバンドもいたが、8割のアマチュアバンドが‥‥‥‥下手だ。

バッドランズ2年目、僕が就職して1年目くらいに音響担当の社員・梶岡さんが退社。とうぶんの間、僕1人の毎日が続いた。ちょっとすると社長が新しい音響の人を連れてきた。コラムを書いてくれている”おが〜”の旦那さんの小川さんだ。この人には驚かされた。初日から素足でハサミを踏んで足の裏に刺さり病院送り‥‥‥ビックリした。しかしライブの本数が少ないと電話作業に参加。月10本だったライブを半分以上入れた。この頃からライブハウスっぽくなった。

僕と小川さんのコンビ。なかなか良いコンビだったと思うよ。たぶんこの頃がバッドランズが一番良い時期だったと信じております。

しかしその時はついにやってきました。

ある年の忘年会の日。バッドランズホール内でスタッフ全員集めて鍋パーティーをしているとよく出演してくれているパンクバンドの連中が遊びに来た。っで僕と小川さんは「今年もたくさんライブをやってくれてありがと〜」の気持を込めビールを全員にふるまった。っでみんなで飲む事に。ちょっとして小川さんが帰り、社員は僕だけになった。そこへ遅れて社長が登場。その状況を見て「コイツ等が何で酒を飲んでるんだ!!」なにか激怒してる‥‥‥僕は「たくさんライブをやってくれたんだから当然でしょ」しかし社長はパンク少年達を追い出した。僕が一番気にくわなかったのは、社長が連れてきた前に1度くらい手伝ってくれた女の人がビールを飲んでいる事である。その女よりもパンク少年達の方がバッドランズの為に貢献してくれたはず。なのに追い返すなんて!許せん!!「お前はクビだ!!」「はいはい、辞めますよ」僕はカギをその場で社長に返して退社。たしか12月の30日の事である。
バッドランズでの照明
ザ・ストリートビーツ (照明) サイケデリックス (ピン)
サンダーヘッド (海外・ピン) 斉藤一義 (照明)
岡本博文 (照明) プレイグス (照明)
ジンサク (照明) 他....

スマトラ
バッドランズを辞めた僕はそのままよく飲みに行ってたスマトラタイガーに行きクビになった事を報告した。するとマスターの啓介氏が「カワノッチ、週末だけでもバイトする?」僕はまたまた即OK!!

次の週くらいから金曜日と土曜日、スマトラで働いた。それだけでは収入が少ないので昼間にマツダレンタリースでバイト。車の配送や洗車をして、終わったら夜はスマトラにのみに行く。結局最後まで飲んでセッションして朝からまたレンタカー屋さん。結局、1年間ほとんど寝ないで働いた。

ある時、スマトラでセッションをして終わりカウンターに戻ろうと思ったら1人のお客さんが「カワノッチには幻滅した。もっと良いドラムを叩けると思っていた。ホントに下手だな〜」っと言って帰っていった。僕はすごくショックを受け約3ヶ月ドラムに触るのが恐かった。そんな時にスマトラに吉川晃司のバックバンドの人達が来店してセッションをする事になった。しかしドラムの人がいなくてナゼか僕が叩く事になった。嫌だ〜。人前で叩くのは‥‥‥‥するとベースの人が「大丈夫。ガツンとやって楽しもうね」僕と楽しんでくれると言うのか!!なんだかやる気が出てきた。セッション開始!!逆旅の恥は書き捨てと言うか、もうガムシャラである。するとメンバーの人達が楽しそうにこっちを見てる。難しい事なんて全然やっていない。ただビートを刻んでるだけ。終わった後「良かったよ。良いリズムだったね」「面白かったよ。ノリノリだったね」って褒めてるのか皮肉ってるのか微妙なニュアンスで褒めてくれていたような気がする。それから僕は復活。それまで以上にパワーアップしたような気がする。

1年間スマトラでバイトした後、ある人の紹介でお店を敷金礼金無しで借りれる事になった。

旧COVER
お店をオープンする事になり、僕はスマトラを辞める事にした。ちょうど同じ時にスタッフの坂本さん(現・マーキンボール)も辞める事になった。そこで自分の店をオープンして最初の間だけ手伝ってもらう事になり、一緒に店の名前をきめる事に。「これからは短くて意味があまり無い名前が良いんじゃないかな〜」ほほ〜。面白い。いろいろ2人で考えました。ドリル、ミサイル、全部で40個くらい考えました。っで、スマトラタイガーで考えていて周りを見ていたら、あれ?メニューが書いてある黒板に『NO COVER CHARGE』って書いてあって『COVER』の所だけ色が派手になってる。これだ!!今までの40個の候補を無視して突然出てきた『COVER』が決定!!

僕と坂本さんはスマトラを辞めて『COVER』がオープンするまでの期間。手伝ってくる島原さん(現・COVERオーナー)と3人で昼間は内装工事。夜は他のお店を視察すると言う名目でナンパ‥‥‥ことごとく失敗。そんなこんなで予定より十日遅れの平成10年10月10日にオープンしました。

僕はスマトラのお客さんを取るのが嫌だったので、ほとんど宣伝しないでお店をオープンしました。しかしどこで聞いたのか初日から超満員。二日目も超満員。2ヶ月の間大忙し。「あっ!これは天職だな」って思ってました。が、しかし夢とはいつか覚めるもの。年を越した平成11年から突然お客さんが減り始めた。減るどころの騒ぎではない。最初は殺す気なのかと思った。しかしだんだん常連さんも増えてきてなんとか安定してきた。でも基準は低く店をやっていくのはギリギリだった。

たくさんのお客さんが来る中ですごく印象に残っているお客さんがいる。オーストラリアからの留学生・ジョーダーン。ジョーは毎週末、スナッパーズと言うお店でバイトをしていて閉店後COVERで飲んだくれ帰っていく、とてもシャイでロック好きで面白い奴でした。でも彼が日本にいるのはたったの3ヶ月。最後の日、僕は彼に「絶対に会いに行くから」っと言って見送った。彼と最後に歌ったビリージョエルの”ピアノマン”は最高の思い出の曲です。

その当時、僕にはバッドランズ時代から付き合っていた彼女がいました。遠距離恋愛。突然僕は1999年11月に結婚しました。結婚する為に子供を作りました。いろいろ事情があったのですよ。そして2000年3月3日に長男『宙音』誕生。たくさんの人に祝ってもらいました。

しかしCOVERの収入だけでは家族を養うには厳しく、2002年8月1日の僕の誕生日にCOVERを閉店する事に決め1ヶ月前に発表。

閉店の話を聞いた島原さんが僕の所に来て「一緒に店をやらないか」またまたまた僕は即OK!!

旧COVER最後の夜はたくさんの人が来て下さいました。ちなみに最後と言う事で『唐々亭』のツケ麺333倍を食べて締めくくりました。
旧COVERでのお仕事
デュオフープ (広島/音響)@ケーブビー フチロック1〜4 (イベント/音響・進行)
@チャイナタウン
きのくにや (イベント/音響)
       @バッドランズ
ねこたま天国 (24時間イベント/音響)
        @チャイナタウン
フレックス (ダンスイベント/ドラム)
       @青少年センター
他....

COVER
2002年8月1日に旧COVER閉店。

2002年8月3日に新COVERオープン。

ほんとこの時期はお店の準備で死ぬ程忙しかった。島原さんと僕。そして旧COVERのお客さんだった栗栖と林。紹介でやってきたブラジル人のブルーノの5人でオープンさせました。最初は踊れるバー的なお店だったのですが、それでは動員が見込めず変更。週末はイベントを入れる方向に。これでも思った程の伸びは無かった。

その後、雑誌などに宣伝を掲載したところ意外に反応があり持ち直してきた。

2002年12月1日、次男『亜門』誕生。それから一週間後に僕と嫁は衝突して離婚が決定する。金銭面の事と、僕があまり家に帰らなかった事が原因である。良いワケが出来ない僕は受け入れるしか無かったのです。

僕と島原さん以外のメンバーは、ブラジルに帰ったり、就職や他の仕事が見つかったりと次々にCOVERを離れていきました。そしてある日、COVERのフライヤーのデザインや印刷をお願いしている原田が2人のDJを紹介してくれました。それが豚と輝。豚はいつかお店がやりたいと言っていたので「COVERで働いてみれば」っと言う話が成立してCOVERで働く事になりたくさんのイベントを企画してくれました。

僕はと言えば店の目の前に借りていた倉庫部屋でボーッとするのが気持良くって入り浸り。「そうだ!COVERは音が大きいから、それが嫌いな人の為に音の小さいCOVERを作ろう」っと思い付き島原さんと相談。即OK!!っで2003年5月24日に『GARAGE COVER』通称『子COVER』をオープンしました。
COVERでのお仕事
akicool.com (広島/照明)@クアトロ akicool.com (ドラム)@兵庫県立美術館
フレックス (ポリバケツドラム)
       @アステールプラザ大ホール
他....

子COVER (GARAGE COVER)
2003年5月24日にGARAGE COVERをオープン。
お客さんからは『COVER別館』や『子COVER』と呼ばれていました。

オープンから1ヶ月間は毎日大繁盛。
なんと大きい方のCOVERよりも売り上げのある化け物みたいなお店でした。その分、お客さんのテンションにあわせる為に僕の酒摂取量も半端では無く。シャレにならない状態でした。盛り上がりはじめると椅子やカウンターの上で踊る人がいたり、座っている見ている事に飽き立ち飲み状態になり踊り始める人がいたり。ハッキリ言って馬鹿馬鹿なお客さんで構成されたお店になっていました。

2ヶ月目からは僕も体調を考えてお酒を控え目にしました。するとお客さんの数も減り、どこにでもあるようなショットバーになっていったのです。それは旧COVRの時のような『隠れ家的なお店』になっていったのです。フリーペーパー『VARI』に書かれていた「トビラは重いよ」。まさにそんなお店。

約1年営業したところで、気がつけばCOVERと子COVERは別経営に。経営面では別だけど、なにかと協力しあう。なんとも不思議な関係。

子COVERにはいろいろなアーティストの方が遊びに来てくださいました。
元ミッシェルガンエレファント、現在レディオキャロラインのベース・ウエノコウジ氏。
エルレガーデンのボーカル・細美氏。
スティーブバイやTMGなどのドラマー‥‥‥‥名前忘れた。外国人。
などなどたくさんの人が遊びに来てくれました。

そして僕は子COVERだけでなく、ケンビーズからの依頼で『セットストック2004』のステージ裏のアーティスト専用レストランのバーテンダーとして参加したりもしました。そこでは氣志團、HY、ハナレグミ、バンプオブチキン,フローなどなどたくさんのアーティスト方達とお話をさせていただいたりしました。とても良い経験だったと思います。

イベントは僕と宇恵テツの共同主催で広島クラブクアトロを借り、2004年に『KINOKUNI MANI-YA』。2005年に『KINOKUNI MANI-YA'05』を開催。毎回300人近い動員で大いに盛り上がりました。

子COVERはだんだんお客さんも増えてきて毎日たくさんの人が遊びに来てくれるようになりました。しかし僕には不安がありました。「このまま今の現状に甘えていても良いのか?」もっと面白いお店を作りたい!!僕は決心しました。

そして2005年6月26日に3会場同時開催イベント『DISCOVER』を最後に子COVERを閉店しました。
『DISCOVER』は予想以上の動員でした。広島市内でイベントを作る人達が集まって1つのイベントに協力してくれた事を僕は誇りに思います。
子COVERでのお仕事
セットストック'04 (バーテンダー)
       @備北丘陵公園
KINOKUNI MANI-YA(イベント/企画)
@広島クラブクアトロ
KINOKUNI MANI-YA'05(イベント/企画)
@広島クラブクアトロ
他....

無職の時期
子COVERを閉店して僕はまず勉強の為に全国をバイクで旅しながらいろいろな場所のそこにしか無い物を見て廻ろうと計画。愛車・SW-1で広島を出発。大阪、名古屋、東京を拠点に、京都、奈良、静岡などいろいろな場所に行きその土地の観光地を巡りながらバー、クラブ、カフェ、レストラン、キャバクラ、ストリップ劇場などなど様々なジャンルのお店をまわり接客や細かなサービス、内装や装飾品を見てまわりました。

そして僕は新しい企画を考えています。